昭和46年08月12日 朝の御理解
御理解 第33節
「お供え物とおかげは、つきものではないぞ。」
お供え物とおかげはつきものではない、信心は御用だというふうに私共は頂いた。御用すればおかげが頂かれると、御用すれば助かる。では御用、御用でそういう意味でおかげを頂くという事は、ここではお供え物もやはり御用なんですよね。御用さして貰う、でもお供え物とおかげはつきものではないぞと教えられるのに、だから、御用とおかげはつきものではないという事もいえるわけですね。
御用とおかげはつきものではない。これは私自身の体験から申しましてもそうでした。成程、おかげ頂くようにあったですけれどね、やはり本当のおかげにはなりません。一生懸命教会の御用をする。一生懸命お供えさして貰う。いわゆる、お供え物とおかげはつきものではないとこう仰せられるが、やはりお供え物とおかげはつきものではないといいながらやはり、おかげを受けた時代もありましたけれどもね。
それは本当のおかげにはなりませんでした。ね、ですから特に、口を開けば御用という事をいわれますけれども、これはよく考えなければいけない。はっきり教祖はここでおっしゃっとられる。お供え物という事は、御用という事もいえるのです。ですから御用とおかげはつきものではないという事。ね、真心があれば、おかげが、真心でおかげを頂くのだとこういうわけです。ね、木の葉一枚でも、ね、氏子の真があれば神はそれを受けるとこう仰せられる。
そこでですね、今日はこの三十三節は、三十一節、三十二節の中から、いろいろと検討して行きたいと思います。御理解三十一節に、信心する者は木の切り株に腰を下ろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよと。信心させて頂く者は、それこそ木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼をいう心持ちが大事なのである。ね、どうでしょうか。信心させて頂きながらそういう心持ちが心の中に、育っていきよるであろうか。今日は皆さんは、自転車で来た人もあろう、自動車で来た人もあろう。ね、
この雨の中にやはり雨合羽をつけて傘をさしてお参りした方もありましょう。木の切り株といゃ、まあ、いうならば、大した役に立たんようなものに対してでもそれを使うたのですから、ね、腰を下ろしたのですから、立つ時には礼をいうような心持ちと言われるのにおかげでこの傘のおかげで濡れんですみました。この合羽のおかげで、ね、おかげで濡れずにお参りが出来ました。自動車のおかげで、自転車のおかげでとまあ、数限りがありませんよね。御礼を申し上げる対象というのは。
だから信心させて頂く者は、その心掛けがいるんです。ね、そういう心掛けがね、いつも自分の心の中にある。御礼をいう心持ちが。次に三十二節、女が菜園に出て、野菜畑ですね。女が采園に出て菜を抜く時、野菜を抜くときです。地を拝んで抜くような心になればおかげがある。又、それを煮て食べる時、神様頂きますというような心あらばあたる事なし。三十一節から三十二節に移って参りますとそれが少し進んだ感じが致しますですね。これは礼をいう心持ちだけではない。
知を拝むという事、お野菜を抜かせて頂く時でも、まず抜かせて頂く前に大地を拝むようなとおっしゃる。皆さんそういう心になればおかげがあるとおおせられるのです。だから夢おろそかに出来ないところですよね。ね、皆がおかげを受けたいわけですからね、木の切り株に腰を下ろしても立つ時にはお礼をいう心持ちをまず、自分の信心生活の中に頂かせると、ね、いわゆる、感謝の心ですね、すべてのものに感謝する心。次には、ね、女が畑に出て、野菜を頂く時に、ね。
自分が作ったのだから、自分が取ってくるという頂き方ではなくてです、まずね、大地を拝めとこうおっしゃる。成程お前が種は蒔いた、肥料も施した。けれども畳の上に種を蒔いて肥料を施したところで、大根も白菜も出来はしませんよね。成程大地を拝めといわれる事がわかる。ね、大地の御恩徳に対して、大地を拝むという事。おかげでこのような見事なお野菜が出来ましたと、大地に対して拝む御礼をいう心持ち、これは野菜だけではありませんよね。紙一枚使わせて頂くでもそうです、ね。
次には、又それを煮て食べる時、神様頂きますというような心あらば、あたる事なしとおおせられる。ね、そこんところは素晴らしいですね。私共はやはり、いろいろ体の上にでも腹が痛んだりする事がありますね。風邪をひいたり致しますね。けどもそこを何か御粗末、御無礼があってのことでございましょうけれども、まあ、それはそれとしてです。その風邪をひいたという事その事をね頂くのです。
これはだから女が菜園に出て、野菜を抜く時にまず大地を拝む心になれ。しかもそれを煮て食する時には、神様頂きますという心あらば、あたる事なしとおおせられる。それはね、例えば、それを頂くという気になれば、成程、風邪はひいた、ね、けれどもねあたる事なし。けれどもね、御用が出来んといったはずはないということ。私共体が弱いですから、いろいろあります。まあ糖尿病腎臓まあ、それこそ足が立たなかったという時代が何年も続きました。
けれどもね、いわゆる神様頂きますという心で頂いとりますから、おかげであれがもし、信心でもなかったら大変な事でしょうね。足が何年か立たなかったんですから。けれども、おかげでね、御結界奉仕させて頂く御用だけはよう出来たわけです。立つ事が出来んもんですから。やっぱり座っとらにゃ出来ん。だからおかげで御用が出来ますとその足が立たなかったのを拝んどる。
これは糖尿病においても、腎臓病においてもそうである。それはこれはお話すると大変長くなりますけど、本当に御礼を申し上げねばならない事実をね感じるのです。ですから糖尿病様様でありいうならば糖尿病とは医者がつけた名であって、糖尿病という名の神様の御都合として頂いておるのです。だから糖尿病じゃからというて、薬一服頂く事もいらなければそれこそ甘いものでも、辛いものです頂かして頂いておるという事になる。だから、いわゆるあたる事なしという事になってくる。ね。
あたる事なし、その為に御用が出来んというような事はないと。風邪をひいちから鼻水がでる。ごほんごほんいうすこしは熱があるごとある。けれどもね御用に差し支えないところのおかげを頂いたら有難いでしょう。それでもやっぱ頭がする。その時にはまだまだその風邪そのものをです、神様頂きますという心がないからであります。その風邪を頂きますという心あらばあたる事ないとおっしゃる。
ああ、夕べちっとばっかり食べ過ぎたけんで胃がせくとじゃろう、昨夜ちょこっと、ぞごっとしたと思うたら、薄着をしとったから風邪をひいたのじゃろうというのではなくてです、それはまあ、直接の原因はそうかもしれませんけれども、もうひいた以上はです、自分のところにその風邪という難儀が来た以上はです、それを頂きますという心になればとおっしゃる。素晴らしいでしょう。頂きますという心あらば、ね、御用に差し支えるという事はないというのである。欠勤届け出す事はいらんという事。
ね、けれども、やはり欠勤届けでも出さなければおられん程しに痛んだり、苦しかったりする時にはです、そこでわからせて頂かなければならん事はね、ははあ、これは受けようが間違うておるな、頂きようがおろそかだなと分からにゃいかんです。神様頂きますという心あらば、あたる事なし。この辺になって参りますと、この三十一節から三十二節にかけて、いよいよ信心の何というかね、佳境というかね。
妙境が開けてくる感じがします。信心ちゃ有難いなあ、こういう難儀な事でもこれを合掌して受けるという事は何と有難い事であろうか。しかもその難儀な事が難儀な事としてあたる事がない。さわる事がないという事にいたっては、いよいよ、勿体ない事だという事になるのです。そうですね、皆さん。ですから、まずひとつ木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼をいうような心持ちを本気で稽古せねば。ある方がこの御理解を頂いてもう本気で乗ってくる自転車に御礼を申し上ようと思いますち。
そいでさあ行こうと自転車を出す時には、もう忘れちから乗る前には今から乗らせて頂きますとお願いも何もせんにゃ、乗った事に気づかせて頂いてからまた、自転車を拝む。忘れとりました。そいでここへ着かせて頂く。もうその時にはすでに忘れておる。まあ、一ぺん実行してごらんなさい本当に忘れるです。この三十日の大祓式の時に、今年の例えば自動車なんかの交通事故から免れることのためにはね、私はこの事を皆さんが実行するなら絶対おかげになると私は申しましたことがございますね。
私はあの大祓いの日に、神様に折角お祓いを受ける自動車が沢山並んでる。大祓いを受ける。はらえつものを出して、そのはらえつものを祓うて頂いた。それだけでも違うけれども、それで完璧という事じゃない。祓いて頂いただけで、もう事故に合わんちゅう事は絶対ない。だから心掛けとしてどういう心掛けにならして頂いたら、おかげが受けられるでしょうかという事を、神様にお願いさせて頂いたら、茶の心を頂いた。茶の心。茶の心というのは、お茶をする人の心と意味でしょうね。
だから私はははぁ茶の心とは昔から、和敬静寂と頂く。和は平和の和である。敬はうやまうである。静はしずかである。寂というのはあのなんていうですかね、どう説明したら、静まりかえったといったというような時に寂という言葉を使いますね。寂光院の寂ですね。いわゆる落ちついた上にも落ちついてという時なんですね。そういう心掛けがなからんとですお茶は出来んのです。ね、けたたましい心、険しい心では、だから昔の侍なんかが戦場に挑む時にはね。
自分の心が、どの位落ちついておるかという事の為にお茶をたてる。手前を間違える。一つお手前を間違えたらもう前に進まれんのがお茶。その手前が一つ一つ静かに出来る。ああ、自分は心が落ちついておるなとわかる。それから出陣したといったような話が沢山あります。ね、だからそういう例えば、お茶をする時の心持ちは出来んにしても、自動車に乗る時、ハンドルを握った時和、敬、静、寂、和敬清寂というただけで私はおかげになると、私が。ね、金光様、金光様どうぞ和、敬、静、寂がありません。
和の心もない、平和なやわらいだ心もない。本当に神様を敬うなら敬う心もない、人を敬うという心もない、静かな心寂の心尚更ない。けれどもどうぞおかげを頂かして下さいと、和、敬、静、寂を唱え言葉のようにして唱えさせて頂いて、金光様を唱えるならば、絶対交通事故は起こらんよと私はその時申しましたでしょう。々それでも実行出来ません。もうね、実行出来ん証拠にもう追突されました、追突しましたというのが何件もあるのです。あんた忘れとったろうそれがもう忘れとりました。
ころっと忘れとる。ね、けれどもやはり本気でね、例えばあの容易い事のようですけども取り組んでみると、やはり難しいんですよ。今日私が申します木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼をいうような心持ちさえあればね、信心者の心持ということが終始この中に頂けとるのです。有難いですよね、すべての事に一々合掌して、こうする事はいらんから、心で合掌する気持ちなんです。自動車を乗り捨てると申しますけど、乗り捨てるのじゃない。ね、降りる時に有難うございましたと、ね。
それはもうその、自動車が生きておるもののようにして、私は挨拶を交わすような心持ちがあれば、おかげになると思うですね。皆さん実行してごらんなさい。本気で、ね。そこが段々進んでまいりますとです、それこそ野菜を抜く時に、大地を拝むような心が頂けます。例えば、紙一枚使わせて頂いても、だからあだやおそかには出来ません。昨日、一昨日、修行生の方が、お届けをこうして本部でのお届けをしとらん、二・三日前に帰って参りましたから。
そしてから、これだけ出せばよかばってんから、こげな立派な封筒に入れて来とる。これは、まあこんな立派な封筒、これはまだ使えるのです。だから私はもったいないからすぐ出させて頂いて、事務所の方へ返そうと。こういう事がです、これを拝む気になったらね、この封筒が一枚がここまで出来てくるまでには、どの位の神様のおかげに恵まれて出来ておるかがわかる。
だから私は、使わにゃん時には絶対使わにゃ出来ませんけれども、只、何でもない時にこんなものを使うちゃならん。しゃっち封筒に入れなければならんならば、まだ使いふるしの封筒もある。これは大地を拝む心がないからです。ね、この野菜は私が作った、私が種を蒔いた。成程肥料も施したという事は、これは私が買うたんだと、買うたっちゃからおれがもんじゃからどげん使おうといいじゃないかというたらもう信心はそれまでなんです。信心ちゃ、そこが信心なんだ。このほご紙一枚でも、ね、
それかというてもう包装紙でん箱でん、こうためちからとうとう大掃除の時には焼かにゃんちゅうこともありますね。問題はその精神なんですよ。ね、始末倹約しろというだけじゃない。その精神が尊いのです。ね、菜園に出て野菜を抜く時、ね、神様頂きますと大地を拝む気持ちになればおかげがあるとおっしゃるのですから、教祖様は決して嘘はおっしゃらんのです。そしておかげが頂かれんおかげが頂かれんという。
そげなろくそうな事しよっておかげ頂かれるはずがないじゃないか、とまあ言いたいところです。そげな事では、だからこの反対の言葉を借りるとそういう事では、おかげにならんという事なんですよ。そういう心になればおかげがあるとおっしゃるのだから。そういう心にならなければいかん、おかげ頂きたいなら。ね、しかもそれを煮て食する時、神様頂きますという心あれば、あたる事なし。ここが素晴らしい。それは大根なら大根を煮て食する時だけじゃない。
私共に与えられるもの、それは困った事だってお互いがそれを難儀という、その難儀だって、あれは与えられたものなんだ。与えられたものなのです。これはもう、私に与えられたもの。ね、なら、私が足が立たないとか、糖尿病とか、いわゆる、これは私に与えられたもの、だからその足が立たない事を有難いと御礼を申し上げる。糖尿病である事を、御礼を申し上げる。そして、そういう気になれば、成程糖尿病にならなければ困る事がある。足が立たんような事にならなければ出来ないわけがある。
ここまでが段々わかってくるのです。ね、信心というのはね、それなんですよ。信心ちゃ参りさえすればよか。お賽銭をポンと投げて、いくらかお初穂包んで、拝んで帰る。お願いして帰る。成程それでもおかげを受けますけれども、それは金光大神のお取次の働き、いわゆる金光大神のお徳によっておかげは受けますけれども、ね、私の信心、?ここのところは、私の信心といえるでしょうね。皆さんの信心、ね。
信心させて頂くようになったら、木の切り株に腰を下ろしても、御礼を申し上げるような心が、いつも自分の心の中にあると。いわゆる、神恩奉謝の心がいつもある。有難いと思うとりますという事になる。その有難いと思うとりますという事が、ね、今度はそれを頂きますとき、ね、大地を拝むような心が生まれてくる。この紙一枚でも神様の大変な働き、この大根一本でも、ね、おてんとうさまのね、光のお恵み、大地の御恩恵なからなければこの大根一本が育たんのだ。
人間の知恵、力、畳の上では作られん。大地のおかげえお御恵みを受けなければ、大根一本が出来んのだと思うと、その大地を拝まなければおられないように、やはり紙一枚でも拝まなければおられないことになってくるじゃない。そういう心持ちになれよとおっしゃった。そういう心になれば、おかげがあるとおおせられるのですから、これについてくるおかげはもう、それこそ数限りがないおかげがつ続いてくる。そこで信心生活とはいよいよ有難いなあという事が分かってくる。
しかもそれが段々進んで参りますと、神様に頂きますという心、それは食べ物を頂きますという事だけではない。与えられた食べ物を頂きますという時だけではない。あなたの前に難儀な事が起こっておる。それは神様があなたに下さってあるのだ。だからその事を、神様へ糖尿病様有難うございますという事にもなるのじゃないか。ね、そういう心あらば、あたる事はないとおっしゃる。その為に家業が出来ない事は絶対ない。ね、この辺のところをやはりよく一つ、ね。
私実行させて頂く所からです、この辺の所が愈々分かると思う。お供え物とおかげはつきものではないと言う事が。ね、三十一節も三十二節も、御供え物とも御用ともいうちゃないでしょう。それでもおかげがあるとか、あたる事なしとかはっきり仰っておられるでしょう。ね、そしてこの三十二節のです言わば一切すべてのものを、神様頂きますというような心でね、行けばあたる事なしというおかげが頂けるから、愈々有難いと思うとりますというのが有難う思うとりますというその心が。
一つの衝動(しょうどう)ともなってくる。お参りさして貰わなければおられん。お供えさせて貰わなければおられん。御用一つもさせて貰わねば相すまんという事になってくる。そうなってきたところの御用、そうなってきた時のお供え、これはもういよいよお徳になると思うですね。これはね、もうお徳になるはずです。だから今私が申しますようなところをね、抜きにして、いくらお供えをしたところで、いくら御用を頂いたところで、それはおかげを受けるひとつの理もあります。
お金をどんどんお供えすりゃやっぱ百円より、千円、千円よか一万円ちゅうごと、お供えするとやっぱおかげは頂くです。特に商売人の方ははっきりしているそれが。それは天地の理に適う事なんです。ね、けれどもねそれではね、本当の信心生活とはいえん。今日私が申しました三十一節三十二節を例にとって今日この三十三節をわかって頂こうとしているわけです。ね、三十一節、三十二節の所が解らして頂いて、ね。
どうとかしなければおられないといのがお供えの形になったり、御用の形になって表れてくるならばそれはそのまま徳になるです。そのお徳というのが人間の幸を左右するものなのです。人間の幸人間が本当に助かるという事は、お徳を受けなければ人間の本当の助かりはありません。お徳を受けなければ人間の本当の幸という言葉は使われません。只お金があるから、健康だから幸ではまだ幸の序の口。本当の幸というのは神様の御信用、御神徳を頂いて、始めて私は幸せだということがいえるのです。
だからそこのところがわからせて頂いてのお供え、いいですか三十一節、三十二節のところがわからせて頂いてのお供え、そこがわからせて頂いての御用、これならね、もうそれは千円のお供えなら千円がたの徳を受けるでしょう。それが一万円なら一万円がとの徳をもうそれこそもう間違いなく受けるでしょう。ね、こうして参りよるけんで、気の毒かけんお初穂せんならんとか、そげな事絶対ないです、金光様の御信心は。いくら上げなければおかげにならんという事は絶対ない。ね。
それを三十一節、三十二節で示してあります。教えを頂いて、こういう心になりゃおかげになる。しかもあたる事もないというほどしのおかげになる。しかしそこんところが、段々わかってくるところに本当の意味に於いての神恩奉謝の心がそれこそ湧いてくるのである。ね、それが衝動になってくる。それが朝参りでもさせて貰わねばおられんのであり、ね、御用でもさせて貰わねばおられんという事になる。
それはそのまま、だから徳になるという事を今日は申しました。何故徳になるかという事を少し申し上げたいんですけどね。まあ簡単に言うならね、例えば金だって物だって、お米だってお野菜だってね、それは皆さんの命なのですよ。ね、着物だって衣類だって、ね、衣類なしには生きていけんでしょう。食べ物なしには生きていけんでしょう。お金がなかったら生きてはいけんでしょう。ね、生きて行かれその生きるということを、支えているものですから、それはもうそのままあなた達の命なのです。
その分を削ってお供えするのだから、これが徳にならんはずはない。そうでしょう。ね、けれどもね、只、そのお供えに命のお供えをしておるんだけけれども、ね、それが真もなければ真心もない。ね、只、お参りするからには、やっぱり幾らか包まにゃ気の毒かちゅう位のものであっては何にもならんちゅう事。何にもならんと言うことはなか、おかげを受ける事にはなりますわね。それはね、一つの理があるのです。
暑い暑いどうしてこげんむし暑かじゃろかち、窓をしめきってしもうとるものじゃけん、風も入らん。ね、風が欲しい風が欲しいというてさあそりけんこっち片一方だけ開けたばってん風はまだ入らん。成程こっちが開いとらんから。ね、だからこちらを開けてこちらを開けるから風が入ってくるのです。お金だけはどんどん儲かりよるばってん、はぁ自分でがめつうこうやってしまうでしょう。だからその金が生きた働きを一つもしない。後からどんどんおかげ頂くという事もない。ね。
それを例えば言うならこう言う道理がありますから、お供えをすればそう言う意味に於いてならおかげを頂く。けどもそういう意味でのおかげでは詰らんという事。ね、折角自分の命をお供えしとるのであるから、それがそのまま自分の命になる、所謂自分の徳になるという程しのおかげになる事の為に、三十一節三十二節を本気で、ね、日常生活の上に行の上に表してそして止むに止まれん、そういう心あらばあたる事なしという程しのおかげを頂くとです、愈々神恩奉謝の本格的ないわば神恩奉謝の心。ね、
それが衝動になってくる。参らなければおられん、家にじっとしちゃ寝ちゃおられん。それが雨をついても、風をついてでもお参りしなければおられないという心がです、お参りという形になりお供えという形、御用という形になってくる。そこから始めてそれがそのまま徳になる。所謂人間の幸せの本当の土台、あの世にも持って行ける、この世にも残しておけれるという、ね、より尊いものはないというお徳が段々頂けてくるようになるのであります。
だから信心とはそこん所を大体が目指す所なんですけれども、目指す前にひとつ今日私が申しましたね、三十一節三十二節の所をです、もういと簡単な事だけれども忘れる。それを忘れんですむ、自分の血に肉になってしまう所までです、ここん所を言わば修養させて頂いて、その心がです止むに止まれんという心になって、御用になって表れるおかげを頂いたら、それはそのまま徳になるという事を今日は申しましたね。
どうぞ。